最初の、『元司法書士補助者の呟き』です。
最近、思ったことがあります。
刑法には、「罪」の内容と、それに対応する「罰」の内容が、書かれています。
「罰」のことはとりあえず置いておいて、刑法に書かれている「罪」というものは、それぞれの人が、生まれながらにして、「こういうものは、『罪』だ」と、体にインプットされているものを、条文として成文化したものだと、思うのです。
例えば、殺人罪や窃盗罪は、殺人や窃盗が、「良くないこと」だという感覚が、我々の中に元々あるから、「罪」として成立するのであって、例えば、性行為などは、子供の頃は、「良くないこと」という感覚が、私たちの中にはまだありますから、その時点でやってしまったら罪になりますが、大人になって、体が成熟してきたら、性行為をすることは、当然のことでありますから、「罪」にはならないわけです。
では、「強姦罪」や、「不同意わいせつ罪」は、どうでしょう。これらの欲求を持ったことのある男性というのは、この世の中の男性の、90%以上に上るのではないのでしょうか。ですが、これらは、自分の中で「良くないこと」と判断する、というよりは、国が、法律で、「良くないこと」と定めているから、「良くないこと」だと認識する類のものであり、人間の自然な善悪観念からは、少し乖離するものであるような気がします。
いわば、国家による、善悪観念の、国民への強制であり、国家による恣意が、感じられます。その強制の目的は、なんでしょうか。恐らく、社会秩序の維持、だと思うのですね。
人間が、欲求のままに行動したら、社会システムなどは、とっくに崩壊しています。社会が、社会として成り立つためには、「法律」が必要であり、「法律」によって、健全な社会のシステムが、形成されていくわけです。
つまり、国家は、人間の欲求に、制限をかけているわけです。それは、条文で言うところの、「公共の福祉」に該当する概念であり、他人に迷惑をかけない限りで、自分の欲求を満たしなさい、ということなのだと思います。
では、恋愛においては、どうでしょう。国家は、恋愛関係については、特に明示的に、法律を設けていないような気がします。付き合うまでの恋愛関係、別れた後の恋愛関係などで、問題が生じた場合などにおける立法は、割とされている気がするのですが、付き合っている間の恋愛関係は、当人たちの自由に任せているような、気がします。
つまり、恋人同士の間では、「何でもあり」なのです。「法の手」の及ばない世界であり、その「何でもあり」の状態を、国家は容認している、と言えます。
ここにおいて一番重要なのは、法律というよりも、私たち人間の、生まれながらにして、「良くないこと」を判断する、自律的感覚だと思うのです。
それを養うのは、学校における「性教育」かもしれないし、親の教育かもしれないし、もしくは、社会全体で教育していくべきものではないかと、私は思うのです。
つまり、個人間の恋愛を規律していくのに、「法律」は、全く役立つものではなく、他の、芸術だとか、文化だとか、そういうものが、人間の、恋愛に対する「感覚」を、高めていくのだと、思うのです。
国家は、法律を次々制定していくことに躍起になっている気がするのですが、芸術、文化を保護する省庁は、恐らく文化庁だけしかないのではないでしょうか。
何か、バランスが悪い気がします。政治家が、芸術、文化を、あまり重要視していない証拠です。
それにしては、法律の力が、強すぎるような気が、します。
あまり、強くは言えません。現代は、監視社会です。悪の根を、潰えそうとする気概が、国家からは感じられます。
………その割に、恋愛に関しては、野放しな状態なんですがね………。
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